とある臨死体験の話

僕は、大学生の時に忘れられない体験をした。
おそらく『臨死体験』というやつだ。
信じなくても構わない。僕には事実なんだ。

 

今から二十数年前の話だ。

大学4年生も後半のある日、就職が決まらないことを、実家の母親から電話でかなりきつく責められた。
父親の仕事も不況の煽りを受けていて、実家はカツカツだ。まだ高校生の弟も中学生の妹もいる。
大学の高い授業料が終わったばかりなのに、今後の僕の生活費まで余裕がないことは痛いほどわかっていた。両親も就職したら少しくらい家に入れてほしいと言っていたから。
アルバイトしながら就職活動も考えたが、その道を選んだ先輩は非正規雇用から抜け出せなくなっていた。
頭の中は親から言われた「まじめに考えなさい」「真剣に取り組んでないからよ」「世の中そんなに甘くないのよ」「お前の面倒まで見られないからね」などなど、常に思い出して苦しくなる言葉ばかりが占めていた。その言葉は僕の存在意義をかき消すには十分すぎた。僕がいなければ親は楽になるのかな。それとも悲しんでくれるのだろうか。

時代は就職氷河期真っただ中だったが、僕の入ったゼミの同級生はみんな優秀なのか就職が決まっていないのは僕けだった。
その事実が僕を一層追い詰めた。

考えても考えても考えても、未来なんて想像できなかった。
卒業が近づくにつれ、親にとってごくつぶしの僕がいなければいいのではないかという考えが、心を真っ黒に染めていった。
そして、この世界から消えてしまうことにしたんだ。

 

3月の、まだ寒い夜だった。
道路に面したビルの非常階段の踊り場から下を見た。
大丈夫。人通りは無いから、自分だけで済むだろう。
飛び降りるシミュレーションは頭の中で何度もした。
目をつぶって、前に倒れるんだ。それだけでいい。
そう思っていたんだが、実際に飛び降りようとすると、怖さが先に立ってしまい、思い切ることができない。
僕は後ろ向きに倒れることにした。下を見ると怖いなら、空を見ながらにしよう。
都会の空に星は一つも見えなかったけど、今日は月がきれいだ。
ひとつ深呼吸をして、月を見上げて、僕は向きを変えた。青白い月を空っぽの心で見つめながら、ベッドに倒れるように仰向けに落ちていった。
受け止めてくれるベッドはない。自分の髪の毛が月を覆い隠したと同時に全身に衝撃が走った。

しかし、次の瞬間、また同じ場所に立っていた。
空には同じ月が浮かんでいる。さっき、確かに飛び降りたはずだ。
幽霊にでもなったかと思って下を見たけれど、何もない。
失敗したのか、それとも夢を見ているのか。
下を眺めていたら、さっきと同じ恐怖が襲ってきた。
ひとつ深呼吸をして、月を見上げて、僕は向きを変えた。青白い月を空っぽの心で見つめながら、ベッドに倒れるように仰向けに落ちていった。
受け止めてくれるベッドはない。自分の髪の毛が月を覆い隠したと同時に全身に衝撃が走った。

しかし、次の瞬間、また同じ場所に立っていた。
訳が分からない。さっき、確かに飛び降りた。
まるで、嫌なことが頭から離れず、繰り返してしまう時のように場面がループしている。それは飛び降りることを決めるまでの数か月間と似ていた。頭の中は親からの言葉と、焦りと、この世から逃げ出したい思いをずっと繰り返していた。

同じことを考え続けていたあの時から、僕は繰り返すことしかできなくなっていたんだ。


僕は焦った。早く、早く抜け出さないと。
ひとつ深呼吸をして、月を見上げて、僕は向きを変えた。青白い月を空っぽの心で見つめながら、ベッドに倒れるように仰向けに落ちていった。
受け止めてくれるベッドはない。自分の髪の毛が月を覆い隠したと同時に全身に衝撃が走った。

しかし、次の瞬間、また同じ場所に立っていた。
悪夢だ。まだ僕はここにいる。
もう、何度繰り返したかわからない。

 

実はさっき気付いたのだが、正面のビルにも同じようなことをしている女の子がいる。

その子も何度も飛び降りているけれど、また同じ場所に戻っている。

嫌だ。あんなことにはなりたくない。どうすればいいんだ。

 

また向きを変えたとたん、目の前いっぱいに犬のような何かの顔が現れた。
「なにしてるの!」

「うわあぁぁぁ!」

あまりのことに驚いて落ちた。

しかし、今度は地面には叩きつけられずに僕は空中に浮いていた。

そして正面にはよくお稲荷様の神社とかで見るような、真っ白な狐のお面が浮いていた。

「なんで死ぬのさ!なんで逃げ出そうとするのさ!」

「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」

怖さが先に立ち、僕は慌てて逃げ出そうとしたが、手足を空中にバタつかせただけだった。

キツネの面は鼻がくっつくかと思う近さまで近寄り叫んだ。

「早く体に戻って!」

その瞬間、何となく理解した。

おそらく僕は死んだんだ。だとしたらこれは死後の世界か。

ということは、お化けの話でよく出てくるような、自殺を繰り返す霊になっていたんだな。

自分の状況をようやく飲み込めたので、冷静になることができた。

正面のキツネ面に向かって叫んだ。

「やっと死んだんだな!成功だ!いいんだ!もういいんだよ!僕なんて必要ない!いないほうがいいんだ!」

そう言いながら、思わず涙がにじんだ。悲しさと悔しさと後悔で気持ちはぐちゃぐちゃだった。取り返しがつかないことはわかる。とんでもないことをしてしまったが、もう後には引けない。

僕の前に立ちはだかりながら、そのキツネ面も涙をこらえていた。お面なのに。

「確かに、今は全てがうまくいっていないとしても、全て否定するなんて、ひどいじゃないか!」

そう叫びながら、そのキツネ面は空中で一回転したと思ったらふわふわの大きな白い狐に変身した。動物園で見た狐よりはるかに大きい。顔が狐じゃなかったら馬と間違うくらいだ。

「うわあ!なんだなんだ!こわい!こわいぃぃぃぃぃ!」

慌てる僕には目もくれず、そのキツネは僕を子猫か何かのように首根っこを咥えた。

そして、上に向きを変えると、どんどん月に向かって浮いていった。

雲を抜け、地球と宇宙の境を超え、とうとうテレビでしかみたことのない空間にまで連れてこられた。どう見ても宇宙だ。

そして、いきなり僕を宇宙空間に放り出した。あまりの怖さに丸まっている俺のところまで飛んできたキツネは、僕の顔をでっかい肉球でがっちりつかんで、地球と月を見せた。

 

「月がなかったら、地球はどうなると思う?」

 

唐突な質問に頭が真っ白になる。

「え…月?月がなんだって?それより怖い!怖い!」

「もう、ちょっと落ち着いてよ。月がなかったら?地球が月に影響を受けていることくらいわかってるでしょ!!!」

「お願いです、手を離さないでください、怖いです、宇宙に放り出されたら死んじゃいます、お願いです、手を離さないでください・・・」

目をつぶってお経のように繰り返す僕に呆れたような声が聞こえた。

「離さないから、大丈夫だから。もう一回聞くよ。地球と月の関係は?」

「えっと…潮の満ち引きとか?」

「そう。ちゃんと知ってるじゃないの。他には?」

「知らないよ!!!」

「あのね…
月の引力がないと太陽の引力だけになるんだ。そうすると潮の満ち引きがほとんどなくなってしまう。
潮の満ち引きの摩擦で、地球の自転は遅くなっているんだ。だから、一日の長さが変わる。自転周期が早くなるから、月がないと一日8時間くらいになるよ。
そして風が変わる。自転が早くなるからね。風が東から西へ一方向に流れるようになる。
実は、あんなに大きな木星の自転は10時間程度なんだ。木星は横にたくさんの縞模様があるだろう?それはこの風のせいなんだ。
風が強くなると波が高くなり、風で山も削られる。
そして自転が早くなると磁場が変わる。自転が早ければ早いほど磁場が強くなる。オーロラは見えなくなるだろうね。
磁場が強くなると太陽風を現在より遮断してしまう。それが生き物にどう影響するかというと、
植物は地を這うような植物が増える。葉が生えるより苔のような植物が増える。
風が強くて鳥は生きられない。酸素が増える。生物の多様性は今よりも少なくなる。
人類は永遠に時差ボケ
風が強いと音声が聞こえないので、テレパシーが使えるようになるかもね。でも、それって心の中みんな見えちゃうから大変だよね。」

キツネの話が長かったおかげで、俺は少し落ち着き、周りを見る余裕が出てきた。
当たり前だけど宇宙なんて初めて来た。スゴイ。
少々上の空だったため、キツネがちゃんと聞いてるのか?ってにらんでくる。よく見ると可愛い。

「…早い話が、月がなかったら地球に生き物なんてほとんど住めないってことか。」

「そう。月が地球を守っているんだ。人間は、月は地球の子分くらいにしか思ってないけどね。」

「いや、そんなことないけど…考えたことがなかっただけで。」

キツネの口は動いていない。キツネの言いたいことが耳じゃなくて頭に直接響いてくる。そうなんだ。言葉ではなくて気持ちが先に届いて、それを僕が無意識に言語化している感じだ。
なんなんだろう?この感覚は。
そして、キツネが僕に危害を加える心配がなさそうなことを感じ安心した僕は、好奇心が勝ってきた。

「ここは宇宙?あの星は…地球だよな。」

「そう。太陽が当たるととってもきれいなんだよ。
地球の生き物のことを、太陽や月が守っている。地球のことは、宇宙がちゃんと守っている。」

「は?宇宙が地球を守ってる?どういうこと?」

「えー!?人間はもっと知ってるとおもったのになぁ!仕方ない!これから感謝しに行くよ!!!」

「え?え?えぇぇぇぇぇぇぇぇ--------!!!」

キツネはまた僕のの首根っこを咥えて暗い宇宙の奥の方に飛んで行った。

******

僕は氷の星に座って、さっきのキツネと一緒に木星を眺めている。
ここは木星のいくつかある衛星のひとつらしい。
そして今、木星からすごい光と音が聞こえてきている。

この大きな音は、木星に隕石が落ちた音だ。
そもそも真空の宇宙では音なんて聞こえないはずだが、僕には聞こえている。
キツネに聞いたら、「そのほうがわかりやすいから、そう感じてるんじゃない?」とのことだった。
つまり、衝撃の振動を音に変換しているのは自分自身らしい。

かなり大きな音がずっと続いているから、結構大きな隕石だったんだろう。
もし、地球に落ちていたらどうなっただろうか。
キツネに咥えられて木星に着いた時、ちょうど隕石が木星に衝突した直後だった。
その光景は恐ろしすぎて、僕は体の震えが止まらなかった。

木星に隕石が落ちるのはいつものことだからね。
この大きな星は、そのおかげで引力もとても強いから、地球に落ちそうな隕石をみんな引き受けているんだよ。
木星がなかったら、地球にたくさんの隕石が落ちて、今頃生き物なんていなかったと思うよ。」

目の前で起こっている大爆発に震えている僕の背中を、キツネは大きな尻尾で撫でてくれた。

木星はつらくないのかな。」

俺はぽつりとつぶやいた。

「ん?なに?」

不思議そうにキツネは僕を見た。

「あんなに大きな隕石がバンバン当たったら、木星は壊れないのかな。苦しくないのかな。」

「大丈夫なんだよ。木星はそのために大きくなったんだから。」

キツネが答える。

地球に隕石が落ちないように、木星は大きくなったってことなのだろうか。

ふと疑問が浮かんだ。

「恐竜の絶滅は…」

「そりゃ、取りこぼしもあるさ。でも、地球は無くなっていないだろう?
地球が守られているってことは、地球に住む生き物も宇宙が守っているってことなんだ。
君のことも、宇宙が守っている。守るべき命なんだよ。」

僕はため息をついてから顔をあげた。

「そんなこと、今言うなよ。自分で死んじゃったじゃないか。」

「・・・。」

キツネは黙り込んだ。

「僕の人生は大事になんてされてなかった!そりゃ楽しいこともあったけど、長男で我慢することばっかりだったし、死にたくなる現実のほうが多かった!」

僕は思わずキツネに八つ当たりしながら、自分の人生で納得いかなかったことを片っ端から思い出していた。
小さい頃から、弟のやったことまで親に怒られていた。自分のやりたい職業は親に反対され続け、気が付いたら何をやりたいかわからなくなっていた。
小学校、中学校ではいじめられたし、高校では部活のおかげで大学進学できたが、就職も決まらないし、彼女だって振られた。
バイト先の客は本当に理不尽だし、いなくてもいいじゃん。僕なんて。

「そうだろうね。」

キツネは否定しなかった。そして、僕の目をじっと見て言った。

「だからここに連れてきたんだよ。」

「は?どういうこと?」

「まだ、やり直せるんだ。」

「え?俺、なんか有名人にでもなるの?」

「そういうんじゃなくて。君はこれから伝えていくんだよ。」

「伝えるって、何を?」

「君は一人じゃないってこと。」

「一人じゃない…」

「そう。だから、自殺なんて考えちゃだめだよ。ひとつの宇宙をもっているのだから、責任を持って生きなきゃ。」

「よくわからないんだけど。」

「…さあ、帰ろう。」

「教えてくれよ!俺、この先どうしたらいいんだよ!」

キツネは目を合わせず、立ち上がるとふわりと浮き始めた。
俺は慌ててしっぽを掴んで叫んだ。

「しっぽ掴まないで!」

キツネは体をひねってしっぽを掴む手を振りほどくと、また俺の首根っこを咥えて飛び上がった。
そのとたんに体に信じられないくらいの圧力というか重力がかかり、目の前が真っ暗になった。


************

「…。」

目を覚ますと、明らかに病院だと気付いた。
明るい蛍光灯に目が痛い。
瞬きはできるけど、体は動かせそうにない。
身体に意識を向けたとたん、全身の激痛に気付き、思わずうめいた。
さっきまで宇宙にいた感覚がまだはっきりとあった。特に、あのキツネの高級毛皮のような感触…

ふわっと、目の前をあの高級毛皮が横切った。
俺は痛みを忘れ、必死で目だけを動かした…いた。
キツネは部屋の隅でいないふりをしていた。

・・・いや、部屋の三分の一を占めるくらいデカいんだから、無理があるだろ。
そう心の中で突っ込みながら、僕はさっと目をそらした。なんとなく、見ちゃいけない気がした。
よく神様を見ると目がつぶれるとかいうだろう?

多分無意識にそう感じたんだ。だから気付いていないふりをした。

 

そして思い出していた。

「君は一人じゃないって伝えていくんだよ。」

これからどうしたらいいのか全く分からないけど、退院したらこの話を誰かにしてみようと思う。特に、人生に絶望している人がいたら、君は宇宙に必要だからここにいるんだって教えたい。バカにされるかな。伝え方、考えなきゃな。

 

意識が戻った僕のところに、両親が駆け付けた。

二人とも泣きながら謝ってくれて、僕も泣いた。

退院してから普通の生活に戻るまで少し時間はかかったけれど、何かを伝えていく仕事をしたくて小さな広告代理店に就職した。

 

なんでキツネが宇宙に僕を連れて行ったのか、よく考える。

そして、宇宙・地球・国・自分の体が一つの生き物として実にうまく動いていることに気付いた。そうか。宇宙も生き物だから、細胞として僕が必要なのかも、と。
嫌な奴に会うこともあるけど、宇宙は悪玉菌も必要としてるんだと思うと腹も立たなくなった。

今は充実した日々を過ごしている。

 

でもまだ、あの時にキツネに言われたことはできていない気がする。

どうやって伝えようか。君は一人じゃないって。

僕はまだ死ねない。